大塚薬報 2014年10月号掲載

歴史上の人物たちの足跡をたどる 第38回<前編>浅井長政

 小谷城(おだにじょう)の一室に、北近江(滋賀県)を治める戦国大名・浅井(あざい)長政が座っていた。長政は戦仕度である。そして、長政の前には妻・お市がいた。小谷城落城、浅井家滅亡の直前に、長政とお市は、次のような会話を交わしたのではないだろうか。まず、お市が口を開いた。
 「申し訳ございませぬ」
 長政が言った。
 「詫びることはない。いつか、そなたの兄とは戦うことになると思っていた......。そなたは子供たちを連れて城を出よ」
 お市の兄とは、破竹の勢いで天下を目指していた織田信長である。苛烈な性格の信長も人の子、肉親の情はあろう。実の妹と3人の姪に危害を加えることはあるまいと、長政は思った。長政の思いを受け止めて、お市はどう返答したか。
 「つれなきお言葉でございます。わたくしは殿のお側で最後を供にしとうございます」ではないだろうか。その言葉を耳にした長政の心の中には、熱いものが込み上げたに違いない。しかし、長政は切々と諭す。
 「気持ちはうれしいが、娘たちのために城を出て、生きるのがそなたの務めぞ」
 そして、ついにお市も承諾する。
 「おなごりおしゅうございますが、殿のお血を受け継ぐ娘たちのために、涙をのんで城から下がらせていただきます」
 もしも、お市が、この「おなごりおしゅうございますが......」の言葉をすぐ口にしたのなら、命大事が本音とも受け取れる。しょせんは信長の妹かという落胆とも激情ともつかぬ思いが、長政の心に渦巻いたはずだ。そうではなかったと思いたい。
 永禄10年(1567)、長政とお市は政略結婚で結ばれた(結婚年には諸説ある)。北近江の覇者となったとはいえ、浅井の勢力は脆弱である。信長は遠からず尾張(愛知県)と近江の間の美濃(岐阜県)を攻略するに違いない。ならば、そうなってから信長の軍門に降(くだ)るより、信長からの誘いがあるいま、手を握った方が有利だ。そんな打算によって成立した結婚である。
 お市は戦国時代きっての美貌を誇ったといわれる。長政は6尺(180センチ)の長身で、美しい顔立ちの男。心も通じ合ったのだろう、仲睦まじい夫婦であったと伝わる。その2人が死と直面し、3姉妹の行く末も考えたとき、お市が娘たちを連れて兄である信長の下に戻るのが最良の選択に違いなかった。

父親を追放した信玄とは違う

 長政・お市の結婚によってもたらされた浅井・織田の同盟は3年ほどしか持たなかった。浅井、織田、そして越前(福井県)の朝倉の3つの戦国大名の微妙な関係が原因である。
 浅井は朝倉と以前から同盟を結んでいた。京極、六角といった豪族との抗争の際、朝倉の協力を得て、浅井は戦国大名としての地位を築くことができたといっていい。しかし、将軍・足利義昭を奉じて京に上った信長の再三の上洛命令を拒み続ける朝倉家の当主・義景は、信長にとっていつかは討たなければならない存在である。
 敵対し合う織田と朝倉の間に挟まれた、小勢力の長政のつらい胸中は察するにあまりある。そこで長政は、信長との同盟締結に際し、もし信長が義景を攻めることになった場合は、事前に知らせることという一文を約定に盛り込んだ。しかし信長は、知らせることなく朝倉討伐の軍を進めた。
 もちろん、長政は激怒した。しかし、すぐに織田との同盟を破棄して朝倉に味方する決断は下せない。それほど当時の信長の勢いは凄まじいものがあったのだ。その決断に大きな影響を与えたのは、長政の父・久政の存在である。
 久政は武将として戦に秀でていたわけでも、政に手腕を発揮したわけでもない。いわゆる凡庸な人物だった。そのため、家臣団は16歳の長政に家督を譲るよう働きかけ、長政が当主となったいきさつがある。
 いわゆる久政は隠居させられたわけで、普通なら政治軍事に口出しできない立場だが、なぜか発言力を持っていた。私は、長政擁立では団結した家臣団が、信長との同盟によって2派に分かれてしまったと考える。信長の勢いを重んじる親織田派と、信長のやり方や性格を嫌い、長年援助してくれた朝倉を大事とする親朝倉派だ。そして、親朝倉派の家臣たちが頼りとしたのが久政だった。
 同様に家臣団に担がれて当主となった武田信玄は、父を国外に追放している。しかし、長政にはそれができなかった。豪放磊落(ごうほうらいらく)で押し出しがききながら、長政は戦国を生き抜き武将としては優しすぎたのかもしれない。父の朝倉大事の思いを一蹴できず、信長との同盟を破棄する決断をせざるを得ない状況に陥ってしまった。


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