大塚薬報 2014年10月号掲載

歴史上の人物たちの足跡をたどる 第38回<後編>浅井長政

 織田信長につくか、朝倉義景につくか、浅井家家臣団は二派に分かれていた。評定も何度か開かれたろうが、長政は決断力のない、優柔不断な男ではない。長政は元服した際、賢政(かたまさ)を名乗らされた。久政の代に六角氏の勢力に押されたため、六角義賢(よしかた)の一字を与えられたのだ。主従関係ともとれる屈辱で、久政の弱腰を嫌った長政は、永禄4年(1561)、17歳のときに長政と改名し、浅井家独自の進むべき道を打ち出した。
 一方、信長を討ち取れる絶好の機会を失ってもいる。足利将軍を奉じて上洛する少し前、信長は長政の支城に手勢だけで訪れたことがあった。二人はすっかり打ち解け、信長は泊まっていったのだが、もし長政に野心があれば信長を討ち取ることはたやすかった。実際、信長を嫌う家臣たちから、千載一遇の好機だと信長暗殺をほのめかされている。
 しかし、長政は考えた。もし討ち取ったとしても、わしは信長に代わって近江・尾張・美濃の覇者になれるだろうか、である。織田一族の逆襲があるかもしれない。美濃を追われた斎藤氏などの勢力に攻められ、存亡の危機にさらされる可能性も予想された。豪胆で存在感もある長政ではあったが、舵取りの随所に弱さが現れる。
 そうして月日は流れ、結局、長政は信長に反旗を翻すことになってしまった。信長が朝倉を討つため敦賀まで進むと、長政は突然離反して兵を挙げた。朝倉と浅井の挟み撃ちにあった信長はあやうく危地を脱し、尾張に逃げ帰っている。それが元亀元年(1570)のことだ。
 その2カ月後、早くも陣容を整え直した信長は、徳川家康と共に近江に侵攻した。長政は3,000の兵を率い、朝倉軍15,000とともに姉川をはさんで、信長軍35,000、家康軍5,000と対峙した。世にいう姉川の戦は、まず朝倉軍が崩れ、奮戦していた長政軍も破れ去った(軍勢は「甲陽軍鑑」による)。
 しかし、長政が生涯を閉じるのは、このときではない。それから3年後の天正元年(1573)のことである。

私にはできなかったが、娘たちは時代を彩る

 その3年間、長政は、甲斐の武田信玄を中心に、朝倉、比叡山、本願寺などと連携しながら、信長包囲網を構築していった。そして元亀3年(1572)、反信長勢力の期待を一心に背負って、信玄が進撃を開始する。信玄から長政に送られた書状が残されている。そこには、こう記されている。
 「ただ今出馬致す。この上は猶予なく行(てだて)に及ぶつもりだ。義景と相談され、この時、開運なされるように行することが尤(もっとも)もである」
 この書状を読む限り、信玄は浅井を朝倉の配下と見なしているようだ。ここに、小大名である長政の悲哀を感じずにはおれない。
 さて、信長包囲網だが、信玄の病死によってあえなく瓦解した。信長は朝倉を滅ぼすと、休まず北近江に兵を返し、長政の居城である小谷城を攻めた。しかし、小谷城は、清水谷という深い谷の両側の尾根に築かれた典型的な山城で、山頂に大嶽城(おおづくじょう)、尾根の中段に山王丸、小丸、京極丸、中丸、本丸、大広間、桜馬場、御馬屋などの曲輪(くるわ)が連郭式につながっている。長政軍が5,000ほどの小兵力とはいえ、そうやすやすと落とせるものではない。
 しかし、小谷城の真向かいに位置する虎御前山(虎姫山)に陣を張った信長は、浅井の支城を一つ、また一つと落とし、小谷城は丸裸にしていった。さらに、頼りとした家臣団の裏切りが相次いで起こった。その様を見つめながら、長政の胸中にはどんな思いが渦巻いたろう。無念の思いか、信長への怒りか、それともお市と娘たちの命だけでも救えた安堵感だろうか。
 長政は、潔く自害した。29歳の若さである。しかし、信長のもとへ下った3人の娘のうち、長女の茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室として秀頼を生み、大坂城と運命を共にした。次女の初は、浅井家の主筋にあたる京極高次に嫁ぎ、姉である淀君の運命を見届けた。そして三女の江は、徳川2代将軍・秀忠の側室となって、3代将軍・家光を生んだ。小大名の悲哀を一身に受けた長政の血脈は、後の世に受け継がれ、歴史を飾っていくことになる。


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