大塚薬報 2021年11月号掲載

古代はキトンの白のイメージか忘れられた多彩な世界かモローの絵を見ながら考える

キトンにサンダル

 古代ギリシアの人々の服装といえば、まず思い浮かぶのは、キトンにサンダルといったスタイルであろうか。キトンは、長方形の布を二つ折りにし、肩を留めるブローチと腰のベルトだけで着る、あの簡単な白い服だ。古代ローマ時代になると、布をゆったりと巻き付けて着るトガが、市民服になる。古代の絵画をまとめて詳しく見ているわけでもない私などは、古代ギリシア・ローマ時代の神話や伝説などの人物も、キトンやトガを着て、革のサンダルをはいた姿で思い浮かべていたのであった。

 実際はどうかといえば、ギリシアやローマの古代の絵画には、男女とも裸体で描かれることが最も多く、着衣の場合も、キトンやトガ以外の衣服や、キトンの下に着る多彩な長短の衣服などもみられ、複雑である。

 そこで、こういう古代の絵画の遺品を参考にして、後代の画家たちが古代風俗の正確な再現を志す、というようなことを考えてみると、非常に難しい仕事であるに違いないと思えるのだ。

 今回登場する近代フランスの画家ギュスターヴ・モロー(1826~1898年)も、生涯、ギリシア・ローマの神話や伝説を描いた。彼の場合も、神話や伝説の人物は裸体で描くことが多いが、着衣の人物においては、非常に華麗で多様な独特の古代ファッションをつくり出している。果して、それが画家の地道な古代研究の成果なのか、それとも想像力の産物なのか、私などにはわからない。ただ、モローの人物が着る衣装は、キトンやトガを主とする、古代ギリシア・ローマのスタイルとは違い、どこか異国的な美を求めるものであることは明らかなのである。

 鑑賞するモローの2点の作品は、「オルフェウス」(1865年)がギリシア神話のなかの神にまつわる主題、「岩の上のサッフォー」(1872年)が、紀元前7世紀ころのギリシアに実在していたとされる女性詩人サッフォーを描いた絵である。

 「オルフェウス」は、1866年のサロンに出品された作品で、サロンではそれほど話題にはならなかったが、優品として国家に買い上げられ、リュクサンブール美術館に展示された。19世紀に、公開されている場でいつでも見られるモローの作品は、これ1点しかなかったのである。ギリシア神話のなかで、バッカスの巫女たちの誘惑を無視したために、彼女らに殺された竪琴の名手オルフェウスの首を、流れ着いた先でトラキアの女が竪琴の上に載せて抱き上げ、見つめているところを描いたものだ。

 この絵でも、トラキアの娘の、緻密な文様のある青い色調の更紗か絹の薄物に、見事に調和した装身具をほどこした装いが、見る者を惹きつけずにはおかない。

 モローの作品のなかでは、派手さはないが、安定感と深みをたたえた、名作である。

「オルフェウス」モロー、ギュスターヴ オルセー美術館 154×99.5cm

オリエンタリズムの時代

 ここで、普通に美術史に接しているだけではなかなか視野に入ってこないモローの前半生に、ざっとふれておこう。

 1826年、ギュスターヴ・モローはパリに生まれた。父親ルイ・モローは国の仕事などをする建築家、母ポーリーヌ・デムテイエは音楽愛好家であった。母親の才能を受け継いだものか、ギュスターヴは美しいテノールの持ち主で、後年、ローマで交流した大作曲家ビゼーをもうならせたという。

 理解ある両親のもとで、早くから画家をめざしたギュスターヴは、1846年、王立美術学校に入学、アカデミーの会員で王室にも関係のある画家にも師事し、いよいよローマ賞に挑戦することになった。当時のフランスでは、アカデミーの授与するローマ賞を受賞するのが、一流画家になるための早道であった。ローマ賞には、官費による4年間のローマ留学という、いわば副賞がついていて、この留学から帰ると、画家としておおいにハクがついたわけである。

 ところが、モローは2年続けてローマ賞を獲得できなかった。これで彼はローマ賞をあきらめ、美術学校も辞めてしまう。ちょうどこのころ、テオドール・シャセリオーの絵を知り、大きな影響を受けることになる。シャセリオーは12歳でアングルに弟子入りし、17歳でサロンに入選した早熟の天才であった。20歳のときには、ローマに遊学している。

 モローの彼への心酔ぶりは、自分のアトリエを、わざわざシャセリオーのアトリエの近くに移すほどであった。ここで生涯の友となった歴史画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとも出会い、文筆家としても知られた画家ウジェーヌ・フロマンタンとの交遊も始まったのである。オリエンタリズムのブームは、近代フランス美術に長く続いたが、シャセリオーもフロマンタンも北アフリカを旅した経験をもっていた。モローの絵画にも、そうした仲間たちと共有した異国的なものへの憧れが、やがて生きてくる。

 シャセリオーは37歳の若さで急死してしまい、モローもショックを受けるが、幸い、仲間を得たモローの、芸術界や社交界での活発な活動は衰えなかった。

 1857年、モローはほぼ2年にわたるイタリア遊学の旅に出る。イタリアでは数々のルネサンス期の名画にふれたが、注目すべきは、ポンペイやヘルクラネウムで古代壁画を模写していることである。

 帰国して5、6年後、イタリア体験が熟してきたころに描いた作品の一つが「オルフェウス」であった。

益々さえわたる色彩

 モローの後半生は、引きこもりがちだったように見える。たしかに、結婚をせずに母親と2人暮らしの生活であったし、1870年、普仏戦争に兵士として志願するも、リューマチの発作で断念せざるを得なかった、ということがあって以来、あまり外出をしなくなったといわれてきた。だが、現在では、モローには、母親公認の愛人、アレクサンドリーヌ・デュルという女性が存在したことも明らかになっており、芸術仲間との交遊も案外盛んだったようである。

 むしろ、モローは晩年を迎えていよいよ精力的に制作に打ち込み、画風の上では、益々色彩が明るくなっていった点など、目を瞠るものがある。作品の力強さも、1870年代から描き始めた数々のサロメの作品などで絶頂期を迎え、これらがモローの代表作となった。

 「岩の上のサッフォー」もサッフォーを描いた複数の作品の一つだが、色彩が明るくなっていることは、7年前に描いた「オルフェウス」と比べれば、一目瞭然だ。この絵の華やかなサッフォーの衣装について、モロー自身こんなことばを遺している。

 「私の作品《サッフォー》の場合、私は彼女に巫女の聖性、巫女といっても詩人である巫女が持っている聖性を付与しようと考えた。それゆえ、優美さと厳格さの印象を与えることができるように、そしてなによりもまず、詩人の最大の特性である多様性、想像力を人の心に呼び覚ますことができるような衣装を身につけさせることにしたのだ。」(ギュスターヴ・モロー著 藤田尊潮 訳『ギュスターヴ・モロー』)

 モローの描いたサッフォーは、ファオンという美しい若者に恋をした彼女が、その恋を受け入れられなかったために、レウカディアの岬から海に身を投げた、という伝説があるから、それによってであろうと思われる。

 モローという画家は、自作について語った文章を数多く残している。これは彼の作品のコレクターのたっての望みで、やむを得ず残したメモだったが、私たち絵画ファンには、またとない贈り物になった。たとえば、古代神話の英雄ヘラクレスについて、ずっと動く肉塊として扱われてきたが、自分のイメージは、青銅の足をもち、鹿よりも速く走る優雅な青年だ、という意味のことを書いている。

「岩の上のサッフォー」モロー、ギュスターヴ ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館 18.4×12.4cm

◎このコーナーの作品は、大塚国際美術館の作品を撮影したものです。〈無断転載使用禁止〉

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